かなり前の話になるんだけど、スタンダードでまだヴァラクートが使えた時期、青白コントロールが使う広がりゆく海についての記事が書かれていた。
大まかな部分しか覚えていないのだけど、森にプレイするか、それともヴァラクートにプレイするために取っておくか、とかそんな感じの話だったと思う。
今回のお話しには、その記事の正確な詳細は必要ないので話を先に進めると、記事を書いた人(津村さんだったかな)はヴァラクートにプレイするために、森にはプレイしない派で、森にプレイしない事に対して多くのコメントが寄せられたと記憶している。

その時に印象的だったのは、筆者の意見に対して「私ならこうする」式のコメントが大半だった事。
まぁ普通のコメントって大抵は主観で書かれるのだけど。
その時に俺は特に何も思わなかったんだけど、今では違和感を感じている。
違和感が何に起因しているのかと言うと、その記事の筆者と読者の間に存在するであろう前提条件の差にある。
俺が見る限りは、それについて言及したコメントはなかったのではなかろうか(あやふやだけど)

コメントの中の森にプレイすべし派は、森にプレイする事で相手が事故る可能性を主張する。
確かに可能性はあるだろうが、相手のキープやランドセットをシビアにすればするほどその可能性は小さくなっていく。
極論すれば森に広がりゆく海をプレイされただけで機能不全に陥るような構築や、キープや、プレイなどは行われないだろうと主張する事もできるのだ。
実際のMTGにおいては確率の影響下にあるため、そうならない事はあるだろうが、無防備な状態でプレイされた森が広がりゆく海を釣り上げるためのものであるとするなら、もう森に広がりゆく海をプレイする意味はほとんどない。
仮に、シビアな場面であればあるほど、対戦相手が手ごわい相手であればあるほど、こうしたこちらの思考を釣り上げるプレイに遭遇する率が上がるのだとすると、安易に相手の事故に期待する事は出来ないのである。
要するに、見えているもの(この場合は相手の意図)が違うとプレイも当然違ってくるけど、それを踏まえて議論しないと、議論できているように見えて、議論にならないよと言う事である。
まぁこの様に上手い人が言ってんだから、間違いないでしょみたいに考えると賛成意見以外、コメント出来なくなるような気はするのだけれど。

・・・MTGの話をしているのに、MTGの話で説明すると、俺の思っている事が伝わらないので、じゃんけんの話で例えよう。

じゃんけんのルール上では、グー、チョキ、パーの強さは等しい。
グーはチョキに勝ち、チョキはパーに勝ち、パーはグーに勝つ。そこに強さの差はない。

しかし、じゃんけんは人間が自分の手を使ってプレイする。
この事から、人間は唐突にじゃんけんを行う時、他と比較して複雑な動作を必要とするチョキを咄嗟にプレイする事が出来ず、結果としてパーとグーが残る事から、じゃんけんの中ではパーが最強である、とこのような説明をする事も可能であろう。
実際にはどのようになるかは不明だが、説明は成り立つ。結果がついてくればなお良く、これはその世界において常識となるだろう。

次に上記が常識として存在する世界を考えると、上記からメタゲーム的にチョキが優勢になったり、チョキが優勢になった結果、グーが優勢になったりするであろう。
これをじゃんけん思考世界と呼ぼう。じゃんけん思考世界の中ではグー、チョキ、パーに優劣はあるけれども、その優劣は世間の流行りに依存する。

しかし、このじゃんけん思考世界の中に突如として勝ち続ける集団が現れた。
彼(もしくは彼女)らは今までのじゃんけん思想とは異なり、相手の結果を予測して自分のプレイを決定するのではなく、じゃんけんを実際の動作として見る。
言葉通りに相手が何を出すかを見てから、自分のプレイを決めるのだ。
これは単なる後出しだが、これが超反応によって行われるため、じゃんけん思考世界では見咎められる事はない。
これをじゃんけん実技派と呼ぼう。
このじゃんけん実技派同士の対戦では、お互いフェイクの押収であり、騙しきった側が勝つ。
それぞれの形から派生するフェイクが変化するため、じゃんけん実技派においてもグー、チョキ、パーには優劣が存在するが、派生は固定であるためメタゲームによっては変化しない。
ただし(派生フェイクを増やすor発生までのフレームを減らす)技術革新によってそれぞれの強さは変化するとする。

そこで、このじゃんけん思考世界で、じゃんけん実技派と、実技派ではない普通のプレイヤーが共に

「現在はチョキこそが最強である!」

と議論するとして、さて議論になるだろうか。

お互いは自分の前提を条件に話をする。
内容は共にじゃんけんの事を話しているのであり、非常に近いものである。
もしもこの時にお互いがお互いの前提を確認しなければ、破綻する事なく終わるのではなかろうか。
しかし両者に見えているものには決定的な差が存在する。
全く別のものについて話をしていると言って良い。

MTGでもそうであると考える。
通常、コメント方式で情報のやり取りをする時、余程でなければ前提を確認したりしない。
しかもMTGの場合は上記例ほど露骨に双方の差は明確ではないのだ。

例えば実際にプレイしているプレイヤーAとそれを観戦しているプレイヤーBが全く同じプレイ順番を選択し、試合後にそれを確認して意気投合したとしても、両者の思考は数限りない相違がある可能性があり、その齟齬は簡素なコミュニケーションによっては露見しようがない。山ほどの相違は結果によって無視される。
個人の思考は固有のものであり、プレイヤーの数だけ思考が存在して然るべきである。
局所的に似通っていて、コミュニケーションを行う上で都合が良いので差異がクローズアップされないだけなのだ。

では、双方の認識に差異がある場合に議論する時どうすれば良いか。
まずは自分の前提、思い込みを捨てる事。これによって相手の意見を取り入れる事は出来る。

次に相手の見えている物を想像する事。
意見の相違が大きい場合、相手は自分に見えていないものが見えているかも知れない。
それを考える。聞けるなら相手の前提を聞く。(理解できるかどうかは別だが)

そして実際にそれを試す事。
現実的にはMOでPTのテーブルを再現する事は出来ない。ならばPTに参加するしかない。
それが出来ないなら、よりPTに近いところに参加するしかない。
「より近いもの」がMOの場合は選択肢として仕方ないところである。

・・・とは言ったものの、人間のコミュニケーションは正確さよりも効率性を重視し過ぎるので、本当の意味で意思疎通ができるかどうかは不明だ。
しかし、もらった意見を「ありえない」としてそのまま流すか、価値のあるものとして受け止め、考え、想像し、試す事で手探りながらも真意に近付けるかどうかはその人次第である。
願わくば「近づける人」でありたい。

コメント

通りすがりのゴブナイト
2013年2月17日1:57

じゃんけんのは分かりにくいっす。

「議論」じゃなくてコメントの重ね合いだからそういうことになるんだと思います。「議論」をするなら前提や条件は定められてないと成り立ちません。

通りすがりのゴブナイト
2013年2月17日2:09

っと、読み返したら、こんなことは本文中に書いてありましたね。失礼しました。

bun
2013年2月17日9:33

おはようございます。
今回はわりと推敲したほうなんですが、それでも読み返すと、うん…?ってなりそうですね。
一応、言いたい事としては、議論する時には思いこみを捨てて、相手の意図を理解しようってのと、分かっているつもりでも相手の思考のレベルが高すぎて、実は全く分かっていないかも知れないから、心の片隅においておこうと言う事でした。
議論する時に前提を決めるのは大事ですよね。
俺は自分の考え方が、強すぎて固すぎるせいでうまくないです。
せめて聞き上手になりたい…。

通りすがりのゴブナイト
2013年2月17日14:34

聞き上手って大事ですよね。コミュ力はむしろ話すより聞く方が大事だと思うくらいです。

bun
2013年2月17日16:21

ですよね。聞き上手なら相手も意見を言いやすいだろうし、理解力が伴えば有意義な話ができるのじゃないでしょうか。
理解力も欲しいなぁ・・・。
bun

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