今日は19時頃に仕事から帰宅。
普通なら晩御飯を食べて、若干くつろいだ後にドラフトをするところなのだが、今日はご飯を食べながらお酒を飲んでしまった。
僕はお酒に弱くて、少量のアルコールでも自覚できるほど酔ってしまう。
これでは正常な判断をする事は出来ないし、ましてや何かを学ぶ事など出来ない。
と言う事で、今日のドラフトはお休み。

先週行われたGPT仙台の結果は、0-2の音速ドロップ。

不甲斐ない結果に終わったが、以前お世話になった人へのお礼を済ませた事や、新しく知り合った方々との交流など、有意義ではあった。

そう言えば、年下のある友人のMTG方向に関する成長ぶりには驚かされた。
僕はスタンダードには疎いが、その子はかなり精通していて、僕が初めて目にする様な新しいデッキや、一般的で無い、ニッチなデッキ群にも豊富な知識を持っている様だった。
一昔前のその子はデッキ構築の手腕は定かではないが、プレイに関してはかなり甘さを残していて、横で見ていて心配になるくらいだったが、去年から安定した成績を残しているらしく、これからが特に楽しみな逸材に成長を遂げていた。

何とも頼もしく、同時に少し寂しい様な、そんな気分だ。
昔はあんなだったのになぁ・・・。

何となく郷愁的な気分になってしまった。
と言う訳で、僕の昔話をしようと思う。

最初は僕がMTGを始めたきっかけを。
それから特に節目になったエピソードを。

僕が最初にMTGに触れたのは、何と高校の課外授業の時だった。
当時、その学校と教師が何を思って授業でMTGを扱おうと思ったのかは定かではないが、ともあれそれが始まりだった。

僕はMTGのルールを知り、2、3回プレイして、そしてすっかり気に入ってしまった。
課外授業が行われた日の放課後には既にその教師にコンタクトを取るために、職員室を訪れていた気がする。
周囲の友人も最初は僕に付き合ってプレイしていたが、学年が変わったのを機にやらなくなった。
それで、僕はその後半年間くらいはその教師と2人だけでMTGをプレイしていた。

思えば奇妙な関係で、平日学校でプレイしたりはせずに(教師には仕事があったのだろうから当然だが)土日を利用してMTGを続けていた。
当時は既にインターネットもある程度普及しており、僕はその教師からカードリストや大会の結果を教えてもらっていた。
その教師は僕の学年の化学の教師であったが、同時に僕にとってMTGの先生でもあった。

学校で使うノートは当然の如くデッキリストで埋まり、
最初に赤単の先制攻撃デッキが
次いで赤白の先制攻撃デッキが
そして赤緑の先制攻撃デッキが山の様に量産されていった。
新しいカードが手に入るたびにデッキは枚数を増して、80枚を越え、やがて100枚を越えた。
それでも先生は何も言わずに、黙々と僕に付き合っていた。

当時、先生は僕に教えてくれるだけの情報を手にしていたはずで、当然流行のデッキやデッキ構築法を知っていたはずなのだが、僕には何も言わなかったのだ。
せめてデッキ枚数を60枚にしたらどうかとか、強いと思ったカードはコストがそれほど高い物でなければ4枚入れても良い事を教えてくれても良かったとも思うのだが・・・。

お陰で僕は自由に総合計100枚以上と言う戦力を誇る先制攻撃デッキを楽しむ事が出来た。
それでも不思議と先生に全く歯が立たなかったと言う記憶は無い。
恐らく先生は僕が自然と成長するのを、ただひたすらに待ってくれていたのだと思う。

僕がMTGプレイヤーとしてほとんど成長する事無く、再び1年が過ぎた。
そして、その分岐点は唐突にやってきた。
新しいプレイヤーの参入である。
そいつは第4版の頃からMTGをプレイしていて《ネビニラルの円盤/Nevinyrral’s Disk(5ED)》《剣を鍬に/Swords to Plowshares(ICE)》《神の怒り/Wrath of God(10E)》
そして《対抗呪文/Counterspell(ICE)》によって武装したデッキを持ち込んだ。

僕は負けた。
徹底的に負けた。
何回やっても負け続けた。

思えば、この敗北こそ、僕がトーナメントプレイヤーとして歩み始めたきっかけだった。
僕は悔しかったのか、人間が出来ていなかったため人から教えを乞う事が出来なかったのか、そいつから何かを教えてもらったと言う事は無かった。

ただ、相変わらず先生からは情報をもらい続けていた。
僕が欲しがるものは、単純なデッキリストから、MTGのデッキ構築や、プレイの際の思考の基盤となる理論的なコラムに変わっていた。
Duelist Japan誌も貸してもらい、やがて買ってもらい(!)何回も何回も読み返した。
僕は今でもMTGの理論的な話や概念の話が好きだが、この頃にプレイヤーとしての基盤が完成した感がある。

やがて僕は近くのカードショップに通う様になり、自然とそのコミュニティの一員となった。
定期的に店舗の大会に参加し、GPTや日本選手権の予選にも参加する様になった。

そして程なくGPの2日目を経験し、日本選手権予選を突破した。
日本選手権予選突破の決定打は対戦相手のエントリースリップの記入ミスと言う、いま考えればとても素直に喜べたものではないものだったが、当時は何だかんだと言いながら嬉しかった様な気がする。
その時は現在の様に対戦相手とのコミュニケーションを重視したり、試合内容を吟味したりする余裕は無かった。
ただ、勝てばそれで満足で、負ければ酷く悔しがり、不快感を隠そうとはしなかった。

本戦の成績は19位だったか、33位だったか定かではないが、ぎりぎりマネーフィニッシュしなかったと言う記憶がある。
当時はフォーマットとしてロチェスタードラフトがあり、そのロチェスタードラフトでは某ネームプレイヤーから

「これだから日本のMTGがダメになるんだ!」

と言うお言葉を頂くほどのドラフトをしでかし、それでも2-1した様な気がする。
今から考えると、とてもまともなドラフトデッキではなく、そのネームプレイヤーの言葉も無理からぬ事ではあると思うが、当時は最も天狗になっている時期でもあったため、ただ憤慨していた。

MTGに対する努力と、それに伴う成果。

あの頃の僕は、この両輪でトーナメントプレイヤーとして突き進んでいく事になる。
勝利を欲しがるあまりに、負ける事に恐怖したり、そのために周囲を傷つけたりする事になるなど、この頃の僕には想像も出来なかった事である。
それだけ自分の事にしか興味がなく、周囲への配慮など考えられなかった人間だった。
余りに未熟。余りに傲岸不遜。

ある意味で(本当に極一部の意味で)
僕のMTG人生において、最も純粋で、充実していた時期。

その後の僕は、トーナメントでのイカサマプレイや、非紳士的行為によって、MTGと言うゲームと、それに参加する人々への興味を徐々に無くしていく事になるのだが・・・。
この続きは機会があれば、また今度。
アルコールによって、僕の心の扉と口が開く事になれば、その時に。

コメント

ラッチ
2010年4月13日22:44

「ワーム高速召還」の先生ですね。
まさか課外授業でMTGを持ってくるとは!

最近は初心者をみるとやれ○○を入れろだのこれは要らないからこれを増やせだの、本人を無視したアドバイスをする人を多く見るように思います(決して間違った意見ではないのですが)。

ただひたすら、本人の成長を見守ってくれて、必要とあらば手を貸してくれる、先生っていいなぁと思いました。

bun
2010年4月14日12:37

>先生
そうそう。その先生ですw

僕がそれに気がついてから、なぜデッキは60枚の方が良いのか、と言う話をしてくれましたし、僕が普通のデッキを使う様になってからは、FiresやAngry Hermit等のデッキを持ってくる様になっていました。
今から考えれば、相当な忍耐が必要な気がしますw

教師と言う職業を選択した人ですから、人に何かを教えると言う事に対して、拘りがあったのかも知れません。
僕は人に対して、聞きたがり&教えたがりですから、尊敬はすれど、まねはできないなぁ・・・と思います。

ななし
2010年4月14日22:25

学校の授業でMTG・・・
凄い先生ですね。

bun
2010年4月14日23:29

>ななしさん
MTGは元々数学の教材だったそうですから、先生が数学の教師であったりすればまだ解るのですが、化学の先生だった訳で、自分の趣味をかなり前面に押し出した選択だったと思います。

先生がMTGを通して何を生徒に訴えたかったのかはとんと解りませんが、現在の僕を形成するかなり大きな要因になった事は確かです。

僕の学生時代には、他にも自分の趣味を反映して、授業中にゲーム音楽を演奏させた音楽教師もいますから、そう言う星の元に生まれたのかも知れませんw
bun

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